近松寺の名称由来

夫れ当寺中典の開基を原ねれば志州公なり主席(志摩守)は、
休甫居士の号はあっても院号無きを以って為に之を懐ふこと久し。
それで予言って近松寺殿の院号を称名す。其の所以の者は何ぞ。寒山詩に曰く。
「微風幽松を吹く、近く聴けば聲愈々好し」
近松の称は之に本づくか。碧厳会の請に応じ近松寺の末寺自南寺方丈室で書く。
                           海門
之れは志州公夫人の百五十年忌に際して京都妙心寺住持海門和尚が志摩守の滅後百数十年後に院号無き故に近松寺殿と追贈したことと、近松寺名称の起因を宣明したものです。 

瑞鳳山 近松寺

 

山名:瑞鳳山(ずいほうざん)、宗派:臨済宗、南禅寺派
 
寺の創建は寺伝によれば、後二條天皇の乾元元年(1302)と伝えられています。
降って天文年間(1532~1554)、岸嶽城主波多三河守親は博多聖福寺の僧湖心碩鼎(こしんせきてい)の高徳を慕い、満島山(現在の唐津城内)に近松寺を再建し開祖として迎えたと伝えられています。
この寺は、天正2年(1574)に兵火に遭い、焼失しました。
 
文禄(ぶんろく)2年(1593)、豊臣政権によって波多三河守親が改易になり、寺沢広高が波多氏の後を受けて唐津地方の代官になりました。そこで、広高は博多聖福寺にいた耳峯玄熊(じほうげんゆう)を招き、中国の明や朝鮮との外交を任せました。耳峯禅師(じほうぜんじ)は、よくその任に応えると共に慶長3年(1598)には祖師湖心碩鼎(そしこしんせきてい)ゆかりの近松寺を現在地に再興しました。寺沢広高は耳峯禅師の功績に報いるために寺田百石と山林を寺産として贈り、菩提寺として篤く帰依しました。
 
寺沢氏2代目の堅高(かたたか)が江戸藩邸で死去すると嗣子がなく寺沢氏は断絶になり、寺運も衰退に向いました。第四世遠室明超(えんしつみょうちょう)はこれを憂い徳川家光に近松寺の隆盛を懇請しました。やがて、これが聞き届けられ百石の御朱印を賜り、旧観を維持する事ができるようになりました。
 
その後、譜代の大名大久保・松平・土井・水野・小笠原各氏の唐津入部となりましたが、歴代の城主は当寺を帰依しました。中でも文政元年(1818)に入部した小笠原公は寺田百石を寄進して、菩提寺として深く帰依しました。
 
 
〒847-0815 佐賀県唐津市西寺町511 0955-72-3597
瑞鳳山 近松寺